戦争違法化の歴史
 「このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々がいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまった・・・」。「だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません」
・・・これは、憲法は施行された1947年に当時の文部省が中学1年生の社会科教科書として作成した『あたらしい憲法のはなし』の一節です。

@第一次世界大戦(1914年〜18年)

 ヨーロッパ全土を巻き込み、約850万人が死亡、空爆で犠牲が一般市民に及ぶようになり、戦車や毒ガスも登場。
 
 この経験は、少しずつ進んでいた戦争防止の流れを一気に加速した。

 中世ヨーロッパを支配していた「神の意思」を実現するための戦争=「聖戦」論を制限するため「正当な理由」がある場合に限るという考えが出てきましたが、なにを「正当」とするか判断する機関もなく無力でした。

 今度は国際的なルールを守れば戦争は合法だとする考え(無差別戦争観)が登場。捕虜の待遇や占領支配のあり方など国際慣行を守らせる動きが出てきた。

A国際連盟(1920年〜46年)

 第一次世界大戦後につくられた国際連盟では、加盟国に「戦争に訴えざるの義務を受諾」することを要求。なにが違法な侵略であるかを示す手続きを備えた。

 連盟は戦争一般を禁止したのではなく、あくまで規約に定めた手続きに違反した場合の戦争を禁止したので、戦争抑止の仕組みとしては弱いものであった。

 しかし、“戦争は合法的なもの”とする戦争観を乗り越え“戦争は違法なもの”とする第一歩を踏み出した。

B不戦条約(1928年)

 1928年に「戦争放棄に関する条約」(パリ不戦条約)が結ばれ、「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」ことを宣言。これが「二度と戦争はやるまい」と多くの国々が考えたことだった。

 この流れを破ったのが日本でした。日本は国際連盟の理事国であり、不戦条約も批准していました。しかし1931年、中国東北部への侵略を開始。日本はこの侵略戦争を「満州事変」と呼びました。国際連盟規約や不戦条約違反だと批判されないよう、宣戦布告した戦争ではなく「事変」だと言い訳するためです。

 その後、非本は、ドイツ、イタリアと軍事同盟(日独伊三国軍事同盟)を結び、第一次世界大戦をはるかに上回る悲惨な第二次世界大戦を引きこしました。

 その反省から、「戦争のない世界」をめざし生み出されたのが国際連合であり、その到達点に立って生まれたのは日本国憲法でした。
 
「加憲」・「創憲」
「論憲」とは

 時代に即して新たな項目を追加するというのが「加憲」。創るというのが「創憲」。改憲も含めて論じるというのが「論憲」。
 「加憲」とか「創憲」は、環境権、プライバシー権など新たな権利を加えたり創ったりするというものです。

 しかし、日本国憲法に環境権が明記されていないから環境が守れない、プライバシー権が明記されていないから個人の電子情報が漏れるというものではありません。

 環境権とかプライバシー権などは現日本国憲法をもとに運動によって確立されてきたものです。権利を明確にするために必要なら法律を作ればよいもので、問題は憲法ではなく、法律をつくる国会の問題です。

 「加憲」とか「創憲」の本当の狙いは、憲法改悪の論議に世論を誘導するためのものです。

 「論憲」も、改憲にむけた世論作りを狙ったものです。
「海外で武力行使」できる国とは  
 「海外での武力行使」とは、一言で言えば「日本の軍隊が外国人を殺すこと」です。

 「武力行使できる国」とは、実態的に言えば、イラクで米軍がやっているような民間人(お年寄りや子どもたちなど)も殺していくような国になることです。

 はたしてこんな日本になって良いのでしょうか。
集団的自衛権の行使とは
 「自衛」という文字があるので、あたかも「集団で自衛する」ように錯覚します。

 アメリカが集団的自衛権の名で実際にやってきたことは、ベトナム戦争、グレナダ侵略など、侵略戦争です。
「普通の国になる」とは  
 憲法9条が禁止している「集団的自衛権の禁止」をやめて、集団的自衛権が行使できる「普通の国」になるということです。

 もしも憲法9条がなければ、小泉首相はイギリスのブレア首相のように(それ以上に)、ブッシュの副官として振る舞い、イラク戦争に自衛隊を派遣して、米軍と一緒にイラクの女性や子どもたちに銃を突きつけ殺していたと思われます。自衛隊員も反撃に会い犠牲者が出ていたことでしょう。

 憲法9条がある「特別な国」だからこそ、アメリカべったりの小泉首相であっても、自衛隊は「非戦闘地域」にしか出せないでいます。だから、自衛隊員がイラクの女性や子どもを殺したりしていないのです。